2014年5月24日土曜日

繊細ゆえに・・作曲家モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel)の孤独な人生


私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。
それをもっとみんなに聴かせたいのに、
もう一文字も曲が書けなくなってしまった。




生前、彼は泣きながら友人にそう呟いた。

作曲家:ジョセフ=モーリス(モリス)・ラヴェル(Joseph-Maurice Ravel)

1875年3月7日、フランス南西部バスク地方のシブールでラヴェルは生まれた。音楽好きの父の影響で7歳でピアノを始め、12歳で作曲の基礎を学んだ。両親は彼が音楽の道へ進み事を激励し、1889年14歳でパリ音楽院に進学。



古風なメヌエット Menuet antique 1895




水の戯れ Jeux d'eau 1901



ソナチネより 中庸の速さで Modéré Sonatine 1903-1905

1900年から5回にわたり、ラヴェルは作曲コンクールに試み入賞をするものの大賞獲得を逃していた。彼は1905年の時点で「水の戯れ」「亡き王女のためのパヴァーヌ」などの名曲を残していたにも関わらず、1905年の年齢制限による最後の挑戦では入賞どころか予選段階で落選という肩透かしな事実を突きつけられた。しかし、コンクールの本戦通過者6名すべてが審査員の門下生であったことから、審査の公平性が疑問視され、音楽批評家の間で波紋が沸き起こる。結果、パリ音楽院院長テオドール・デュボワは辞職に追い込まれ、ラヴェルの恩師でもあるガブリエル・フォーレが後任院長として就任する事となった。後にこれは「ラヴェル事件」と呼ばれている。



鏡より 海原の小舟 Une barque sur l'ocean Miroirs 1904-1905



鏡より 道化師の朝の歌 Alborada del gracioso Miroirs 1904-1905

1917年1月15日の第一次世界大戦中に、最愛の母が亭年76歳でこの世を去る。悲しみに打ち拉がれ、失意のどん底に落ちたラヴェルはその後戦争で倒れていった仲間に捧ぐ「クープランの墓」を完成させて以降は創作意欲が衰退していった。時にラヴェルは友人に宛てた手紙に母の死について「日に日に絶望が深くなってゆく。」と綴っており、自分を受け入れてくれた唯一の人間が母であった事が語られている。




クープランの墓より メヌエットMenuet Le tombeau de Couperin 1914−1917

1927年には軽度の記憶障害、言語障害に悩まされ、1932年パリでのタクシーによる交通事故にあった事を機に症状がさらに進行していった。わずか50語程度の手紙を1通仕上げるのに辞書を使って1週間も費やした。

私の頭の中にはたくさんの音楽が豊かに流れている。
それをもっとみんなに聴かせたいのに、
もう一文字も曲が書けなくなってしまった。

表現だけを失い、思考や感情を抱えたままの彼は泣きながら友人にそう呟いたのである。蓄積するだけの想いは、何に対しても虚しく感じ、無関心にならざるを得なかったラヴェル。そんな、生涯独身を貫き、感情すらひた隠しにしてきたこの男には多くの友人から手が差し伸べられた。毎日訪れる友人を快く受け入れたラヴェルだが、自宅にはまがい物の品をコレクションした応接間があったそうで、誰かがその品について褒めると「実はこれ、偽物なんです。」大喜びしていたのだ。偽りを美しいと捉えるものに対するアンチテーゼ。彼は名曲「亡き王女のためのパヴァーヌ」についても強く自己批判を行っていたが、結果的には皮肉にも人々に広く愛される曲として残されている。

 


亡き王女のためのパヴァーヌ Pavane pour une infante défunte 1899

思うに、周りの評価に沿うものを汲み取る事のできる繊細な人間だが、それゆえに嘲笑し、同時に自身のエゴをどこまで受け入れてもらえるのかと人々に歩み寄っては傷付くを繰り返し、線引きをはかりながらも、自身が崩れてゆく音を自身で聴いていたのかもしれない。その旋律には美
しさの中に、もはや痛ましささえ感じさせる孤独を漂わせているのだ。

記憶障害も進行し続けていた彼は晩年、亡き王女のためのパヴァーヌを聴いて、本心からなのか、最期の皮肉なのか、こう語った。

「なんて美しい曲だ。しかし一体誰が作ったんだろうか。」




引用,参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/モーリス・ラヴェル
http://blog.livedoor.jp/isekan/archives/51325940.html

人気の投稿